大学は富み(?)、学生は貧しい
日本生化学会の機関紙「生化学」の2001年3号から以下引用させていただきます。
アトモスフィア
大学は富み(?)、学生は貧しい
清水孝雄
アトモスフィアは本来、もう少しシニアな方々が哲学的な話を書く欄であるが、今回、関東支部の企画による特集号と言うことで、書く様命ぜられた。少し荷が重いが、この機会に普段感じていることを素直に述べてみる。
昨年の秋、ドイツに招かれ、ベルリンのいくつかの大学を訪ね、教官や学生と話す機会に恵まれた。数年前に我々の教室に留学していたドイツ人学生とも旧交を温めた。ドイツの大学や研究所は一流と言われるところでも、設備は必ずしも充実していない。特に東西統一を経て、ゼネコンは旧東地域に集中している様である。この国の90%以上の大学は国立で、学生の授業料はただに近い(1学期3,000円)。義務教育はジムナシアムと呼ばれ12年のコースが標準であるが、ほとんどが、国立、公立であり、これも授業料は無料である。また、大学生には6~10万円の奨学金が支払われ、返還も本人の収入に応じ最大5割までである。学生の寄宿舎は1万円くらいだし、贅沢しなければ、衣食住はほぼ足りているという。こうした若手の人材に対する徹底した支援体制と、その後の競争や自助努力もあり、ドイツはイギリスと並んで、米国に続く科学先進国となっている。翻って、我が国を眺めると、次々と新しい研究所や建物が建てられ、各研究室の設備も、欧米の多くの研究室よりずっと豊富である。ドイツと日本を単純比較するのは正しくないが、ヨーロッパと日本で国造りの違いが際だっている様思える。全国の医大の中で最も老朽化していたと言われる東大医学部でも、今、再開発が進んでいる。しかし、学生の生活は非常に貧しい。都市の家賃は高く、大学院生用の寮は全くない。特に、地方出身の非医師系大学院生の生活は悲惨である。都市の物価や家賃が異常に高いこともあるが、これを大都市の特性と呼ぶのは相応しくない。というのは、全国の8割以上の院生は大都市に集中しているからである。昔の東大総長は、時の文部大臣に朽ち果てそうな研究室を示し、大きなインパクトを与えたが、貧困な学生生活の実態は紹介しなかったのではないだろうか。
我が国では平成7年に歴史的な「科学技術基本法」が策定され、翌年、第一期科学技術基本計画が決まり、本年には第二期計画が発表される予定になっている。実際、国策として基礎研究の重視の姿勢がはっきりし、この5年間でハード面の研究環境は確実に向上した。13年度からいくつかの研究費には30%の関節経費も導入される予定だし、研究者の任期制導入、産学連携や若手研究者自立の促進、研究費の運用の柔軟化など、重要な懸案も進もうとしている。ここで完全に放置されているのが、学部学生・院生など研究を底辺で支える未来の人材への支援である。奨学金の返還猶予と免除は厳しくなったし、国立大の授業料も年々高騰し、私立はさらに状況が厳しく、人材育成と言う面ではむしろ時代逆行の感すらある。振り返ると、基本計画が出来た年は、財政赤字から、政府行革が国立大学の独立行政法人化を提言した年でもあった。この二つの歴史的転換は偶然なのであろうか。この5年間、基礎研究への支援は総額で向上する一方で、例えば校費削減に見られるように講座から学部、さらに学長への資金の吸い上げも増え、また、研究費も過度の集中も始まった。先の30%の間接経費の運用も学長や評議会の裁断に委ねられると言われる。もともと、効率よく研究を進める、民間なみの機動力と競争力を高めるというのが独立行政法人の精神なら、一見役に立ちそうにない研究の切り捨てや、学生の自然淘汰も折り込み済みなのであろうか。「国は富み、国民は貧しい」という趣旨の本がバブル崩壊直後にあった。「富める貧者の国」(佐和、浅田)という鼎談集もこのアンビヴァレントな状況を見事に示している。国が富むというのも実は幻想であった様に、人より物に金をかける制度の行く末に、大学の未来は見えるのだろうか?