疫学研究は、数多くの人々を対象にして、さまざまな病気の頻度・分布や危険因子を明らかにし、予防や治療の方法を探る研究です。疫学は、ヒト集団に対するあらゆる因果関係の確認に用いられますが、なかでも臨床医学で遭遇する問題に対して疫学を適用することを臨床疫学といいます。近年、根拠に基づいた医療(EBM:Evidence-based medicine)が治療現場で重視されるようになり、そのデータの収集・解析〔研究〕に、そして評価・適用〔実践〕するうえで臨床疫学、生物統計学の知識が求められています。
『いつでもどこでも最善の医療が受けられる』ように、「標準化(ガイドラインの作成など)」がさまざまな病気の診療に対して進められています。EBMの重要性が唱えられるのも、一つには、こうした標準医療の意義が広く認識されてきたためです。また、標準医療の推進とともに注目を集めるようになってきたのが個別(化)医療です。抗がん剤などの、比較的副作用の多い薬に対する反応性に個人差が大きいこと、その原因が体質(遺伝要因)であることなどが知られるようになってきました。
ゲノムとは「ある生物をその生物たらしめるのに不可欠な遺伝情報」であり、その実体はDNAの塩基配列情報です。体質は、主に個人間のDNA塩基配列の違いを反映したものであり、一つの塩基のみが異なっている箇所をSNP(一塩基多型)といいます。ヒトゲノム全体ではおよそ1000万箇所以上のSNPが存在すると考えられており、そのなかに薬の効き易さや病気のなり易さを規定するものが含まれています。
集団として「標準化」し、さらに個人として「最適化」することが、今の医療の大きな流れです。そこで私たちは、解析指標の一つにゲノム情報を取り入れた臨床ゲノム疫学を主たるアプローチとして、心血管病とそのリスクファクターに対する診断、治療法の開発・検証に関わる研究に取り組んでいます。現在の研究課題・プロジェクトは、大まかに3つ — 疾患遺伝子の同定、ゲノム薬理学、量的形質遺伝学 — です。
研究プロジェクト
臨床ゲノム疫学(Clinical genomic epidemiology)
- 疾患遺伝子の同定
2003年に完了したヒトゲノム計画により、ヒトゲノムには、2万個余の遺伝子が存在すると推定されていますが、その多くの機能は未だ不明確です。そこで、完全解読されたヒトゲノム(DNA配列)上に、遺伝子の機能を担う領域を全て書き込んでいこうという国際共同研究(ENCODE計画)が進められています。特に病気との関わりにおいてゲノム情報を解釈するうえで、現在、ゲノムワイド関連解析(GWAS: Genome-wide association study)が大きな注目を集めています。その理由は、従来の、特定遺伝子または狭い染色体領域に注目した解析(いわゆる候補遺伝子解析)に加えて、全く逆の、ゲノム全体を“巨視的”に見渡す必要性が生じているためです。1980年代に開発されたポジショナル・クローニングという手法が、これまで、病気(特にメンデル遺伝性疾患)の原因遺伝子探索に多用されてきました。高血圧、糖尿病、心血管病のような多因子疾患の場合、同手法ではうまくいかないことが分かり、その代わりに2007年以後、本格的に用いられるようになったのがGWASです。ゲノム全体の遺伝的多様性を代表する50万~100万種のSNPを“位置マーカー”として使い、特定の個人の病気の状態などと「連動」する(たとえば健常者群よりも患者群で有意に高頻度に認められる)SNPを見つけ出して、その近傍に存在すると推測される疾患感受性遺伝子を「リスト化」していくことになります。
複数の感受性遺伝子を原因とする疾患の場合、各遺伝子が示す発症リスクの大きさは‘マイルド’ですが、恐らく相当数(数十から100個、あるいはそれ以上)の遺伝子の効果が累積することで、それなりの大きさの発症リスクをもたらすと考えられています。十分に網羅的なリストが作成されれば、それを発症リスクの予測〔予防医学〕に活用することが可能となります。しかし、先ずは、GWASという探索的アプローチによって見いだされ確証された新規の(多くは機能未知の)疾患感受性遺伝子が、病態の理解を深めるのに役立ちます。
私たちは、高血圧、糖尿病、冠動脈疾患の候補遺伝子解析およびGWASを行い、日本人で主要なリスク効果をもつ複数の感受性遺伝子座を同定してきています。そのリストには、欧米人と共通するもの、日本人(あるいは東アジア人)に特徴的なもの、の両者が含まれています。さらに環境—遺伝相互作用という観点から、ゲノム疫学研究へと展開しています。
- ゲノム薬理学(Pharmacogenomics)
ある患者に有効な薬が、同じ症状を示す別の患者には全く無効だったり、副作用を生じて症状を悪化させたりする場合があります。これは体質の違いによるもので、たとえ症状が同じに見えても、その病気のメカニズムに関わる遺伝子や、薬の効果を調節する遺伝子の働き方が異なることがその一因と考えられています。ゲノム薬理学は、最も早期に臨床現場への導入が期待されている、個別医療の中核的テーマです。
たとえば、薬物代謝酵素CYP450には体内に取り込まれた薬物を分解する作用があり、同遺伝子の遺伝的バリエーションが、薬物の血中濃度に大きな個体差を生じることが知られています。CYP450の遺伝子型に合わせて、効き易い人(レスポンダー)には減量を、効きにくい人(ノンレスポンダー)には増量をするのが望ましい薬物がいくつか報告されてきており、2005年3月に米国食品医薬品局FDAは「Guidance for Industry on Pharmacogenomic Data submissions」を公表しました。
薬物応答性の違いを規定する遺伝子は、大きく3カテゴリーに分類されています。(1)薬物動態(薬物の吸収、分布、代謝、排泄)に関するもの、(2)薬力学(生体内での薬物作用機構、薬物濃度と作用の関係)に関するもの、(3)疾患遺伝子に関するもの、の3つです。(1)薬物動態(PK: Pharmacokinetics)に関する遺伝子は、CYP450など、候補遺伝子として、これまで最も頻繁に検討されてきました。(2)薬力学(PD: Pharmacodynamics)に関する遺伝子は、そのリスト自体、未だ十分に整備されていない状況です。(3)疾患遺伝子については、前項で述べた研究を通じて、先ず、今よりも‘詳細で高精度’な臨床診断(遺伝子型に基づく病型分類)を行うことが必要です。私たちは、注目する薬物をモデル動物(ラット)に投与した際の、主要臓器・組織でのmRNA発現変動をマイクロアレイ法によって解析し、PKおよびPDの両カテゴリーに属する遺伝子のリストを作成しています。
調べようとする薬物への応答性の個人差は、患者集団で検証される必要があり、GWASによる関与遺伝子座のゲノムワイド・スクリーニングが精力的に進められつつあります。一部の薬物に関して主要な効果をもつ遺伝子がすでに同定されましたが、その多くは、PKおよびPDの両カテゴリーに属する遺伝子であったと報告されています。
- 量的形質遺伝学(Quantitative trait genetics)
高血圧、糖尿病、脂質異常症、肥満などの心血管病のリスクファクターは、各々、血圧、血糖、血中脂質、体格係数(BMI: body mass index)という量的形質(QT: Quantitative trait)に基づいて規定されています。量的形質は集団中で連続的分布を示し、複数染色体上の多数の遺伝子座の影響を受けています。また、その形質発現には環境の影響が少なくありません。これらの複数のリスクファクターに、喫煙、過食、運動不足などの不摂生な生活習慣〔環境要因〕が加わるという、高次元の「複雑系生物学」のモデルといえるのが、動脈硬化でありそれを基盤とした心血管病です。
量的形質の(集団中での)ばらつきを生ずる遺伝的機序は、様々なモデル生物を用いて研究されてきました。心血管病のリスクファクターについては、モデル動物としてげっ歯類(マウスおよびラット)が汎用されています。過去20年以上にわたり、モデル動物での量的形質遺伝子座(QTL: Quantitative trait locus)マッピングに膨大な量の基盤研究が積み重ねられ、その成果が漸く、ヒトの量的形質および関連疾患の大規模ゲノムワイド・マッピングとして結実してきています。すなわち、疾患遺伝子同定を目指した研究の「戦略の立案と結果の解釈」における「指針」を与えてくれるという点で、モデル動物を対象とした量的形質遺伝学の研究は重要であり、ヒトを対象とした研究だけでは成し得ない突破口を開くことが期待されています。
ゲノム科学における、近年の目覚ましい技術革新とともに、いくつかの技術的障害は克服されつつあります。しかしながら、遺伝子の働きを調節するメカニズム、遺伝子どうしの相互作用、ネットワークなどの高次元のゲノム機能解析という観点からは未だ不明な部分が多く、ヒト、モデル動物の双方を活用して、このブラック・ボックスを解明する努力が続けられています。
私たちは、本態性高血圧をはじめとする生活習慣病のモデル動物として、高血圧自然発症ラット(SHR: Spontaneously hypertensive rat)およびその亜系である脳卒中易発症SHR(SHRSP: Stroke-prone SHR)を用いたQTLマッピング、原因となるネットワークの探究、心血管病の新規モデルの開発などを進めています。